「害」という字が、「害を与える」という意味にとられるかもしれないから、
とかなんとかいう理由で、
「障害者」を「障がい者」と表記する風潮があるそうだ。
別の呼び方を公募した自治体もあるそうだ。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
差別するのは言葉じゃなくて人間だ。
やるんなら「人間」で統一しろよ。
平等は、「みんな同じ」ではなく、「みんな違う」を基盤に立つ。
言葉のせいにして、違う理由を説明する手間を省こうとするな。
と、怒っていたら。
鹿児島の方では市長さんがブログに、
「障害者に対して差別的な記述」(記事より)をして反発を食らってるとか。
医療が高度化したため、自然淘汰が失われ、
障害を持つ人を生き残らせてしまっている、という趣旨のことを書いたらしい。
反発覚悟だったとは思うが、これは、深い。
自然に生まれること、自然に死ぬこと、
入口と出口が実は難しい時代。
医療の発達は、それまで救えなかった多くの命を救えるようになり、
その結果、障害があっても生きられる人も増えた。
でも、それを受け取る社会は、今でも、
この字、やばそうだから変えよう、という程度でしかない。
結局は、ニンゲンの問題、なのだ。
曾野綾子さんに「神の汚れた手」という作品がある。
産婦人科のお医者さんを主人公に、
生と死、命にまつわる出来事が綴られていくストーリー。
望まれる命、望まれない命。
市長ブログの記事を読んだ時、
もう20年くらい前に読んだこの小説のラストを思い出した。
久しぶりに読み直してみようかな。
今読んだら、どんなこと、思うかな。