※前編はこちら
さて。
ここからは今回の歌詞盗用事件を通じて、私が個人的に感じたことを書こうと思う。前編を書いて、間を空けずに後編を書くつもりだったのに、思いの外疲労感強く、すこし時間が経ってしまったが。
●JASRACとのやり取り
自分の歌詞が盗用されてCDになっているらしい、と知って、何はともあれ真っ先に連絡したのは日本音楽著作権協会、いわゆるJASRAC。デビューして以来08年までは出版社を通じて、10年に個人会員となってからは信託契約というかたちで、私の作品の著作権はJASRACが管理している。連絡した時点で相手もわかっていたので、当然JASRACの方から相手に対して、ダメですよー、と言ってくれるもんだと思い、電話して事情を説明したところ、こんな答えが返って来た。「うーん、それは当事者同士でお話し合いいただくしかないですねえ」
は?
あのー、と、いちおう食い下がった。そちらに登録してある私の作品が勝手に使われて、タイトルも変えられて、CDも出ちゃってるみたいなんですけど、JASRACはカンケーないんですか? すると、「うーん、それは人格権に関わることで、JASRACは管轄外なんです」
人格権?管轄外??
なんだか動揺してしまって、やり取りをあまりよく覚えていないのだが、思いついて最後にひとつ聞いてみた。もし出るとこに出るようなことになったら、JASRACに登録してあるってことは、これは私の作品ですっていう証明になるんですよね? 「うーん」とすこし間があって、電話の向こうの男性担当者の答えはこんなふうだった。「JASRACとしては登録申請のあった作品をお預かりする、ということで、実際どなたが書いたものかということは問題ではないので、厳密な意味での証明にはならないと思います」
(しばし絶句)
数日後、事実関係がいろいろ明らかになって来て、再びJASRACと話をしたが、JASRACの方から動くことはないということに変わりはなかった。あらためて聞いてみた。たぶん私くらいの世代は、JASRACに登録しないとパクられるよ、盗作されるよ、って思ってる人多いと思うんですけど、そういうことじゃないんですね? 前回とは違う女性の担当者は、申し訳なさそうに答えた。「はい、JASRACはそういったことを取り締まる機関ではないんです」 では、実際問題、こういうことを防ぐ方法は、ないということですね? 女性担当者はますます申し訳なさそうに答えた。「…はい、そういうことになります」
な、なるのかあああ。
もう時間も経ったことなので正直に白状するが、今回の件では、自分の作品がいわゆる盗作されたということよりも、そういうことが起きた時に、JASRACは無関係、私のようなフリーランスのアーティストは事実上の孤立無援状態になると知ったことの方が、実ははるかにショックだった。もしかしてもうみんなとっくに知ってたの!?とドキドキするけど、私にとって音楽を始めて以来ずっと、作品をJASRACに登録するということは「パクられないため」という以外の何物でもなかったからだ。
●著作権って何だ
検索するとたくさん出て来るので、詳しく知りたい方は調べてみるといいと思う。著作権というものについて、私も今回初めて知ったことがたくさんあった。
大まかに言うと、著作権というものは「著作物の財産的価値を保護する「財産権としての著作権」と、著作者の人格的な利益を保護する「著作者人格権」に分かれ」ており(JASRACホームページより)、JASRACが管理するのは財産権。いわゆる盗作はもういっこの著作者人格権という権利に関わることだそうだ。著作者人格権は、著作物は著作者の思想や感情そのものであるという定義の上に立つ、本人以外は持つことの出来ない権利なので、JASRACは関与出来ず、基本的には当事者同士の話し合いで、解決出来なければ司法へ、と、ホームページをあちこち掘ってみたら、信託契約の説明やよくある質問の奥まったところにさらっと書いてあった。
ちゃんと読めよってことか。ふん、こちとらオンガク作るのに忙しくて、そんなもんいちいち読んでらんないんだよ。盗作されてもJASRACは関係ありませんってトップページに書け。でっかく書いとけ。
と、ひとしきり悪態をついたのち、そうか私は長いこと「JASRACに登録しておけばパクられない」という神話、もしくは都市伝説をたわいなく信じていたんだなあ、おめでたいなあ、と、夏空を見上げながら、しみじみがっくりした。
●JASRACって何だ
JASRACの業務をわかりやすく言えば、集金代行、ということになる。CDショップや放送局が私のCDを売ったり曲を放送で使ったりすると、著作権使用料というものが発生し、JASRACという窓口に回収され、手数料を引いた分が著作権者(たとえば私)に支払われるという仕組み。この、著作権使用料というのが、世に言う、印税、である。
使用料を払わなくてはならないのは本人も例外ではなく、自力でリリースするようになって以来、私はアルバムを作るたびに自分で自分の歌にあらかじめプレス数に応じた使用料を払っている。のちに戻って来る(手数料引かれて)とは言え、なんなんだこの夢のない感じは、と思いながら。
たとえご本人でも、著作物は勝手に使っちゃダメなんですよ、ちゃんと届けてくださいね、ちゃんとお金払ってくださいね、だって著作権ってとっても大事な権利なんですよ、だからこうやってJASRACがその権利を守ってるんですよ、ということなんだろう。でも、だったらあたしの歌詞を勝手に使ってCD作ったヤツにちゃんと文句言ってよ、あたしの大事な権利守ってよ、おっかしいよ、と思う私は、おっかしいのか?
もはやあらゆることがボーダーレス化して、インディーズだの配信だのダウンロードだの次々に新しい音楽のかたちが現れ、管理団体に登録されないままリリースされる音源も増えて、現実問題とてもじゃないけどカバーし切れない、というのが、JASRACの本音だろう。今回私の歌詞が使われた曲も、どこにも楽曲登録されておらず、でもAmazonで普通に売られていた。そういう時代である。にも関わらず、ある意味JASRACが古色蒼然としたまま、善意の、あるいは慣習としての利用届に機械的に対応し、特に危機感も困った様子もないのは、放送局など日々音楽を扱う大きな企業からの悪名高き巨額の包括契約料があるからで、そりゃ立派なビルも建つわな、と、嫌味のひとつも言いたくなる。
そして、憤慨したシノハラミヤコさんが「手数料払ってJASRACに登録してても、盗作され放題じゃ意味ないじゃないか!ざけんな!もうやめたるわ!」と権利をすべて引き上げたとしても、そもそも何万枚も何十万枚もプレスするわけでなく、シノハラミヤコさんがJASRACに落としている手数料なんて微々たるものなので、そんなことしても先方はびくともしないというわけだ。悔しい。ああ悔しい。
いまどき盗作被害がどれくらいあるのか知らない。JASRACは財産権だけと言うけど、通り一本隔てたところで何が起こってるか知らないはずないだろう。すくなくとも自分とこに管理を委託されてるものが盗まれたという申し立てについて、アドバイスのひとつも出来ないのなら、権利を守るなんて正義の旗を掲げるなと言いたい。なめるな、JASRAC。たまに電話した時だけ篠原美也子先生とか、言うな。
一体いつから、ものを作るひとより、扱うひとの方が偉くなってしまったんだろう? いや別にどっちが偉くてもいいのだが、時代が変わって行く中で、ものを作るひとは相変わらずものを作るしかなくて、Amazonだの楽天だのiTunesStoreだの、ものを扱うひとは時代のかたちに合わせてどんどん繁盛したり、あるいはJASRACのように既得権益でたっぷり潤い続けているのを見ると、そもそもあんたたち何をネタに食ってると思ってんの?と聞きたくなる。
私くらい長いこと売れない歌手をやってると、あちこちでなめてかかられることは多々あって、いい年していちいち目くじら立てるのもみっともないし、私だっていちおう身の程はわきまえているから、たいていは笑ってスルーする。でも今回はなんか大きな声で言いたくなった。商売だから上前をはねるのはいい。でも、ものを作ってる人間を、なめんなよ。
※ちなみに今回盗用された私の歌詞は出版社を通してJASRACに登録されており、収録されているアルバムを制作した時のレーベルスタッフがまだ同じ場所にいらっしゃったので、著作権使用料他についての実務的な話はそちらにお任せし、現在進行中となっている。出版・レーベルのスタッフが掛け合って、使用料の追徴についてはJASRACが行うことになるようだ。
●法律って何だ
今回の件では、問答無用に訴える、という方法ももちろんあった。著作権侵害という罪は、意外と重い。民事では差止請求、損害賠償請求、そこから得た利益の返還請求が出来るし、故意であると認められれば、10年以下の懲役、1000万円以下の罰金という刑事罰もある。法人であれば3億円以下の罰金。
幸い今回は、盗用した相手が逃げたりとぼけたりせずややこしいことにならなかったので、前編に書いたような方法で解決を図ったが、リリースされたCDのプレス数から言っても訴えて大騒ぎするほどの実害がなく、裁判なんてやっても割に合わない、と思ったのも確かだ。しかも著作権侵害は、レイプと同じく親告罪。「盗まれました」と申し立てたら「それはほんとうにあなたのものですか?」とまずは聞かれるだろう。それはちょっと耐えられない、とも思った。
結局は、誇りの問題、ということになる。あれこれ思いめぐらせてみたものの、それこそ著作者人格権に定義されているように、私の作品が私の思想や感情そのものであるとして、それを侵害された賠償額を、どのように換算すればいいのか。裁判所が裁定し金額を算出したとして、私はそれが幾らくらいなら納得出来るのか。著作者人格権は、ものを作っている人間にとって大事な権利だと思うし、著作権侵害の罰則が重いのも、知的財産に対する敬意の表れであるのだろうと思うけれど、いきなり訴訟というのはやはり素人にはハードルが高い。特に知的財産については抽象的な要素が多いので難しい。乱暴なたとえだが、作品が産んだ利益の額は天と地ほどの差があっても、ものを作る、ということの誇りと名誉について、私とU2のボーノに差は無いはずだからだ。もしそこを争うとしたら、それはもう考えるだけでしんどい。
じゃあ、特に有名でもなく大ヒットしたわけでもない歌だから盗まれ放題でいいのかよ、と喉まで言葉が出かかる。出かかるだけで出ないのは、じゃあどうすりゃいいのさ、という言葉が一緒にくっついてくるから。今回の件は、偶然が重なったことでたまたま発覚したが、それでも問題のCDがリリースされてから発覚まで1年半かかった。いまさらこんなことで思い知らされたくなかったけれど、どっち向いても、無名であることはツライということだ。
●知らない、という幸福
と、
まあ、怒ったりへこんだりばっかしてたわけじゃないですけどね(笑)。でも、権利も法律も、なんかむなしいね、と思った。
いるのかいないのかわからない神さまが私にくれた、歌を書いて歌う、というたったひとつの力。それがいつも私を幸福にし、不幸にもする。言葉に名前を書くわけにはいかないし、まして鍵をかけておくことも出来ない。ドアを開けておくこと、自分を晒すことが仕事なので、時には思いもかけないところから石が飛んでくることもある。悔しいけど、それはそれで仕方がない。
今回の件で、私は、自分が、思っていたよりずっと剥き出しで世界と接していると感じたし、同時にたったひとりで広い荒野に放り出されているとも感じた。いるのかいないのかわからない神さまが、この経験から何を学ばせようとしているのか知らないけれど、もし神さまに何か言えるとしたら、知らないまんまでいたかったよ、ということかもしれないなと、思う。
出来るなら「大丈夫、私の歌はJASRACに登録してあるからパクられないの」と、死ぬまでおめでたく信じていたかった。お金の流れとか、システムとか、あんまりよくわからずにただ音楽を作っていたかった。押し寄せるように届けられる情報に晒され、知りたくもないことまで知ってしまう時代だから、いまとても切実に、知らない、という幸福がなつかしい。そして、知る、ということは失うということにこんなに似ていたのかと、 ちょっと呆然としている。
騒動のさなかのある日、ふと気づいた。この夏は、私が生まれて初めて自分で歌を書き、地下の小さなライブハウスのステージで生まれて初めて人前で歌った日から、ちょうど30年という夏だった。まだ何も知らない1984年の私に大きく手を振りながら、以上、2014年夏のこと、終わり。あーちかれた。