残念な結果に終わったなでしこ。
「試合に勝てないと頑張っていないと思われてしまうので、
これからも結果を大事にしていきたいと思います」
という痛烈な皮肉に満ちた宮間選手の言葉に胸を衝かれたのは、
仮にも世界チャンピオンになったことのあるアスリートに、
こんな毒を吐かせちゃいかんだろ、という悔しさとともに、
試合に勝てない、を、別の言葉に置き換えれば、
それはそのまま存分に身に覚えのある悔しさと淋しさだったから。
そんなことをひっそり考えながら迎えた、あれから5年、の日。
あの日の東京はよく晴れた空だったなあと、
細い細い雨を見て思い出しつつ、
家のことや歌のことに追われるごく普通の1日を過ごした。
あの日、私たちは、ものすごく悲しいものをたくさん見たけど、
ものすごく美しいものもたくさん見た。
たぶんそれまでも、
日々を暮らすということはそういうことであったのだろうけど、
あの時それをあざやかに思い知ったなあ、と思っている。
美しいものを守ろうとする汚れた手や、
汚れた手を躊躇なく握れる美しさ。
どちらが正しいかじゃなく、どちらも、いつも、ある。
どちらかだけでは、嘘だ。
その間に立って、悔しさに揺れていた5年間だったなあと思う。
あの日、小学校2年生の終わりだった息子は、中学校1年生の終わりになった。
私の5年と、息子の5年は、重さも、意味も、全然違う。
子どもの時間は積み重なって行くものだから、
どんどん新しい生き物に育って、振り返らない。
大人の時間はすり減って行くものだから、
悔しいけどついつい振り返ってばかりいる。
何事もなかったように、今年ももうすぐ桜が咲く。
思えばそれも悔しい。
毎年きれいで、悔しい。
どうやら春は悔しいものらしい(笑)
でも、悔しいから、待ってしまうのかもね。
今年もともに春を待てることに感謝しつつ。
いまだ癒えない悲しみに訪れる春が、
希望でありますようにと祈りつつ。