2月22日、父が亡くなった。
肝細胞癌で約9年の闘病。79歳。
3月1日に通夜、2日に告別式を終え、これを書いている。
肝臓癌は自覚症状のあまりない静かな病気なので、
闘病と言っても特に生活を制限されることもなく、
本人も家族もどちらかと言えばのんびり過ごしてきた。
いろんなことがだんだん厳しくなり始めたのは一昨年の秋くらいから。
病気のカーブがゆるやかだけど間違いなく下降していることが感じられるようになり、
体調を崩すとなかなか元に戻らず、短い入院が増えた。
去年の10月に、嘔吐、吐血から誤嚥性肺炎を起こし、
腫瘍のせいで胃がちゃんと食べ物を消化出来ず、出血もしやすくなっていることが判明。
ここから食べたり飲んだりすることが難しく、点滴に頼ることが多くなった。
私は誕生日ライブ「東京サラウンド」を控えていて、
お見舞いに行ったら「ワンマンは大丈夫なのか」と聞かれ、
「完売だから心配すんな」と答えたことを覚えている。
ある時実家に行くと、父が「プリンターがどうしても動かない」と言うので、
見てみると、コンセント入ってないじゃん!
という嘘のようなホントの話があるくらいの機械音痴なので、
インターネットも絶対よくわかってなかったと思うのだが、
デスクトップにショートカットを置いてもらって、
このHPは一生懸命チェックしてくれてたらしく、
話してると「今週ライブだろ」とか「九州行くのか」と言われて驚くことが時々あった。
前はちょくちょく母とふたりでライブにも来てくれて、
いつだったかO-WESTのワンマンの時、
暗がりの2階席で段差を踏み外して騒ぎになった。
まわりのお客さんたち曰く「通路の階段から転がり落ちた」。
本人曰く「つまずいただけ」。
真相は藪の中。ええかっこしいだったからなあ。
ライブの感想、聞いたことなかったな。
いちどくらい、聞けばよかったな。
もうちょっとあったかくなって、もうちょっと元気になったら、
また見に来てって言おうと思ってたんだけどな。
年末になんとか退院して、お正月は家で過ごし、
まだすこしは食べたり飲んだりが出来たけれど、
やはり体調を崩し、1月下旬に入院。
私は年明けワンマン「冬のワルツ」を終えたばかりで、
ライブが終わるのを見計らったみたいに具合悪くなるなんて、
ありがたいなあ、エライなあ、なんてくだらないこと思ったりしていた。
普通に会社勤めで、酒飲みで帰りも遅かったから、
子どもの頃の父の記憶はあまりない。
高校生くらいになって、帰宅時間をうるさく注意されてケンカしたりしたけど、
成績とか進路とかも、わりとほったらかしにされてたし。
高校の時、こっそり煙草を吸ったのがバレて母にとっちめられたあと、
ある朝父の物入れからいつものように小銭を拾って学校に行こうとしたら、
「煙草なんか買うなよ」とからかうみたいに言われたのを覚えている。
高3の夏に私が突然「歌手になる!」と言ってライブハウスで歌い始めた時も、
短大でもいいから大学行って欲しいなと、もごもご言ってたけど、
みんなと同じなのはやだ!と息巻く娘をなんとなく面白がっていたようで、
結局好きにやらせてくれた。
19でこれまた突然家を出てひとり暮らしを始めた時もなんにも言わなかったし、
でもライブはよく見に来てくれて、
たまに仲間との打ち上げにちょろっと顔出して、青臭い音楽論に付き合って、
いつも黙って多めの飲み代を置いて帰って行った。
当時私がバイトしてた焼き鳥屋にも母と時々飲みに来て、
私が飲めばいいと言って焼酎のボトルを入れてってくれたりした。
家を出て以来、よっぽど用事がないと家に寄り付かない娘だったけど、
一緒にお酒はずいぶん飲んだ。
私が男だったら、と思っていたようなフシがあった。
デビューが決まった時も、特になんにも言わなかった。
いろんなことがうまくいかなくて戦力外通告を受けた時も、なんにも言わなかった。
親なんて、と、めいっぱい粋がってたから、口に出したりしなかったけど、
ほんとうは気づいてた。
いつも、すごく、応援してくれてた。
結果的に最後の入院となった1月下旬、主治医の先生から、
退院出来たとしても、もう口からものを食べることは無理だろうと言われる。
すこしでも安定して過ごすためには、
体に埋め込むタイプの点滴の管を入れて家に帰って、
24時間点滴で体力を維持して、とにかく食べないでいるしかない。
父は、先生のこの提案を断った。
「しばらく点滴でがんばればまた食べられるようになるっていうならともかく、
どっちみち食べられないんなら意味ない」
リスクはあっても、もういちどトライしたい。
そう言って、2月18日に退院した。
私はと言えば、折しも、レコーディング中。
2月は作業用に、ライブも入れずとっといたわけで、
春のワンマンの詳細とともにアルバムの発表も、と考えていた。
アルバムが出ると父はいつもまとめ買いして、
得意げにあちこちに配っていた。
ある日看護師さんという方からメールをいただいて、
「お父さまからCDをいただいて、聴いてファンになりました!」と書いてあって、
そ、そこにも配ったか、とのけぞったこともあった。
「スポーツに恋して」が出た時も、本屋さんの通販でたくさん買って、
親戚からなにからじゃんじゃん配ってた。
若い時はなんか照れ臭くて、やめてよって思ったこともあったけど、
問答無用の、見返り無用の、永久不滅の、最強のファンだったな。
お父さん、ありがとね。
自慢の娘はいま久しぶりにアルバム作ってるから、
またまとめ買いして欲しかったんだけどな。
もうちょっとだけ、待っててくれればよかったのにな。
退院から3日間、おそば、お鮨、お刺身、パン、チョコレート等々、
父は入院中に食べたいと思っていたあれこれを、食べ続けた。
今度もどしたら危ないってわかってたから、家族は心配で止めたけど、どこ吹く風。
煙草も張り切ってワンカートン買って、ばんばん吸ってた。
妹のダンナに手伝ってもらって久しぶりに家のお風呂にも入って、
それはそれはうれしそうだった。
思い残すことないよう、と、覚悟を決めていたのかもしれない。
でも同じくらい、医者はああ言ったけど、食べて、そして元気になるんだ、
と本気で思っていたようだった。
家族も同じで、おそらくあっという間にダメになる、と思いながら、
でももしかしたら結構行けちゃうかも、なんて思ってた。
最後まで実感がなくて(いまもまだあんまりない)、
基本的にのんきな家だから、ことの重大さに気づいてなかったのか、
気づきたくなかったのか、わからないけど、
みんな、最後まで希望を捨てなかった。
写真は、2月20日の夕飯。
我が家は酒飲みの家なので、昔からこういうちまちまおかずが並んで、
飲みながらつまんで、締めに食べたい人はごはん食べるというパターン。
この夜父は、私と一緒にすこしだけビールを飲み、
最後に豆腐とわかめのお味噌汁と卵かけご飯を食べた。
翌日はもうほとんど食べられなかったので、
これが父の最後の晩餐になった。
私は臆病なので、振り回されそうで怖くて、
父の病気がわかってからいちども肝臓癌について検索しなかった。
正しかったのか、間違ってたのか、気持ちは半々。
最後も、やっぱ無理にでも埋め込みの点滴やったら、
もしかしたら桜が咲くくらいまで生きられたかなあ、とか、
いまでも不意にくるしく思ったりする。
でも、点滴に頼って、なるべく死なないように生きるというのは、
父の性分には合わなかったんだろうと思う。
この1年は、とても信頼出来る主治医の先生に恵まれ、
全部わかってて退院させてくださったことにも、とても感謝している。
退院の日を含めて、最後家で過ごしたのはたった4日間だったけど、
4年間みたいな4日間だった。
若い時は左翼の演劇青年。
自民党に投票せず、トヨタの車は買わず、
横浜生まれのくせに筋金入りの阪神ファン。
アンチテーゼの人だった。
どんなに弱っても車椅子に乗りたがらず、
杖も嫌だと言って、自分の足で歩こうとしていた。
そんなにちょびっとしかないのに?と笑われながら、
退院して、何十年も行きつけの床屋に行くのを楽しみにしていた。
お洋服もスーツも、いいものが好きだった。
おしゃれな人だった。
東日本大震災のすぐあと、実家に行った時、
当時の菅直人首相が議員にも世間にも責められ続けているのをニュースを見ながら、
「成否はともかく、誰かひとりでも菅に、おつかれさまです、って言ったヤツいるか?」
と怒っていた。
そういう人だった。
肝臓がぶっ壊れるまで酒飲んで、肺がぶっ壊れるまで煙草吸って(立派な肺気腫だった)、
それでも人生を楽しむことをやめなかった。
まだ起こってもいないことを憂うのを潔しとしなかった。
もうすぐ、外で酒飲んで、
のんびり一服することも出来ないような窮屈な世の中になっちゃうらしいから、
死んじゃってよかったかもよ、お父さん。
とりあえずいいことばっか書いたけど、
ブレないと言えば聞こえはいいけど、
頑として謝らないような人だったので、母は苦労したし、
私も妹も、会えば言い争い、という時期もあった。
全然自慢出来るような家族ではなかったし、
最後の方はみんなちょっと頭おかしくなって、なぜか家族で大ゲンカになったり、
書けないようなこともたくさんあった。
たったひとりの孫には拍子抜けするくらい甘くて、
あんなに弱さを見せるのが嫌いだったのに、
階段やでこぼこ道ではうれしそうに孫に手を引いてもらっていた。
赤ん坊の時からしょっちゅう預けられて、3歳からひとりでお泊まりして、
ポケモンでもナルトでもじいじだけは喜んで付き合ってくれたから、
ふたりでよく映画も見に行って、
公園に行って、おもちゃ屋に行って、本屋に行って、旅行も行って、
囲碁も将棋も教えてもらって、私に内緒でたぶんいっぱい小遣いもらって。
期待に応えたとは言い難い私の代わりに、父の晩年を豊かにしてくれた息子は、
病室で最後まで手を握って、誰よりもたくさん泣いた。
ひとりの死を見届けて、ようやく言葉に出来る、たったひと文字。
くそ、なんでこんなにややこしいんだよ、愛って。
母の希望で、通夜、告別式のBGMには「SPIRAL」を流した。
本はお棺に一冊入れた。
あっちでも読んでね。
で、もし平尾誠二さんに会ったら、ぜひおススメしてね。
私の歌を誰かに説明する時、「メッセージソングですから」っていつも言ってた。
人一倍、伝えるのが下手な人だった。
間違いない。この人は篠原美也子の父だ。篠原美也子は、この人の娘だ。
悲しくはない。でも、とても淋しいよ。
お父さん、さよなら。おつかれさまでした。
感謝と、心からの共感をこめて。