見たこともないような稲光と雷鳴、
叩きつけるような雨と風。
雨が降るのは、初めてのことじゃない。
でも数日前の雨は、なんだか、知らない雨だった。
さくらももこさんの訃報に驚きながらだったから、
余計、見知らぬ感が強かったのかな。
7月の中国地方の豪雨。熱中症で死んだ小1の男の子。
人が死ぬ雨。暑くて死ぬ夏。
いつのまにか、夏は、知らない夏になったんだなあ、と思う。
それはやっぱり311の震災以来だと思うけど、
ちゃんと備えておきましょう、早め早めに手を打ちましょう、
みたいな気運は前よりうんと高まって、
SNSが広がるタイミングとも重なったからか、
炎上、みたいなことが増えたのも、
早めに芽を摘みたい、先手を打って潰しておきたい、
っていう気持ちの現れかなと思ったりする。
わからなくもないなと思う。怖いんだよね。
でも、どれだけ堤防を高くしたら水に勝てるだろう。
もう夏は外に出たらダメ、っていう法律を作ったら誰も死なないかしら。
善意も悪意もいっしょくたに次々生えてくる言葉の芽を、
モグラ叩きみたいにいつまで叩き続けられるだろう。
しゃあない。
自然は時々人間の想像を超えてくるし、
暑くて死なない人もいっぱいいる。
エリートオンリーかと思いきや、
金足農みたいな学校も突然甲子園に現れたりする。
(それはそれでおっかないから例によってモグラ叩きのハンマー持った人がたくさんわいてきて暑過ぎとか投げ過ぎとかわあわあ言うけどいいんだよ生涯いちどの夏なんだから気がすむまでやらせてやれよと例によって私は黙って悪態をつく)
想定外は怖い。
でも新しい価値観はいつだって、不安と背中合わせで、
万雷の拍手で歓迎されるとは限らない。
ほっとくこと。せめて加担しないこと。自分のリアルを押し付けないこと。
それをシニカルやあきらめにしないのは至難の技だけど。
どっちみち、ほとんどのことはみんなすぐ忘れちゃうんだから。
こうやって発信することが、アリバイ作りみたいな気がして、
最近白紙の画面をぼんやり眺めていることが多くなった。
あの時こう思ってましたから! ほら、ちゃんと書いてあるから!
という変形の言質のようで、書いたそばから消して、が続く。
猜疑心は気力を侵食する。
希望を失わずにいることはとても難しい。
午前4時。
臆せず、読み返しもせず、
2018年夏のアリバイ工作を発信しちゃおう。
みんなすぐ忘れちゃうとしても。
私は覚えているから。