答えのない悲しみを


ちょこちょこ片付けをしてたら、なつかしいもの発見。
保育園の連絡帳。
ウチの息子は、1歳から5歳まで5クラス、
合わせても50人足らずという、大きな家族みたいなちいさな保育園で育った。
泣いちゃいそうだなーと思いながらぱらぱら目を通したら、
子どもの様子や家での出来事を書きつつ、
自分の愚痴が多くて笑えた。
いろんなこと思い出して、そして、先生のコメントがやさしくてやっぱり泣けた。

保育園はねえ、お昼寝がないとダメなの。
先生方はそのわずかな時間にほっとひと息ついて、
でも休んでる暇なくこまごました業務をこなしながら、
連絡帳を埋めた親たちの愚痴や弱音や悩みにお返事を書かなきゃならないから。
だから、お散歩でガンガン歩かせて、公園でわあわあ遊ばせて、
くたびれたとこに給食おなかいっぱい食べさせて撃沈しないとダメなの。

あのころ、毎日いっぱいいっぱいで、しみじみする余裕なかったけど、
ちいさな言葉のひとつひとつにどれだけ救われたことか。
おかげで私は心折れることなく、その後も多くの関わりに支えられて、
息子は元気に16歳になった。

そんなふうに、みんないろんな気持ちを積み重ねて子どもを育ててるから、
子どもが死ぬニュースは、やっぱりとてもつらい。
悲しい5月だったなあと思う。
いるのかいないのかわからない神さまは時々見せしめのように、
調子に乗るなよ、紙一重だよ、と突きつけて来る。

なぜ、という悲鳴に答えはない。
あれは私の息子だったかもしれず、あなたの娘だったかもしれない。
同じく、注意を怠った運転手は私だったかもしれず、
暗闇を胸に刃物を手にしたのはあなただったかもしれない。
そうでなかったことに理由はない。

どんなに時代が進化しても、どれほど細心の注意を払っても、
防ぎ切れないもの、備え切れないもの、
神の領域と呼ぶ以外仕方のないもの。
AIもビデオ判定も沈黙するしかないもの。
他人事じゃない。でも当事者ではない。
無力であることに謙虚でありたい。
他人の悲しみに思い上がりたくない。
なぜなら、こういうことがあるたびに、
ご家族の気持ちを思って胸が張り裂けそうになりながら、
ウチの子じゃなくてよかった、私じゃなくてよかったと、
こっそり安堵してしまう自分がいるから。

人が人である限り、雨は止まず、
答えのない悲しみを抱いたまま、土砂降りの中を行くしかない。
道は一本しかなく、
でも希望もまた、あるとすればそこしかないのであれば、
どんなにしんどくてもその道を行くしかない。

今日から6月。
雨の気配に耳をすませつつ。