斉藤和義さんは、同い年でデビューも同じ年。
ちゃんとお会いしたことはないけれど、
同世代の中で素晴らしいミュージシャンのひとり。
話題の替え歌。
キャリアも実績もある音楽家が、
ご本人の責任で決断実行されたことなので、
それは最大限に尊重されるべきだと思います。
残念なのは、
あれを聴いて溜飲を下げたり、
憂さを晴らした人はいたかもしれないけど、
希望を持ったり、前向きになれた人はいたかなあということ。
あと、あたしも世間にケンカ売るのは好きだけど(笑)、
絶対やり返して来ないとわかってる相手に石を投げるようなのは、
やっぱちょっとしっくり来ないので、
否定もしないけど共感もしません。
今、
音楽に何が出来るのか、とか、
音楽家としてどのように行動するべきか、とか、
歌って来た意味や、歌って行く意味を、
多くの音楽家たちが考えていると思う。
斉藤和義さんの選択は、そのひとつ。
この1ヶ月余り、ピアノの前で、
自分が何を歌って来たのか、何を歌って行きたいのか、
ずっとずっと考えていた。
思ったのは、
それがどんなものであれ、絶望や悲しみがあるのなら、
そこがあたしの歌の居場所だということ。
絶望に種類なんてない。貴賤も、優劣もない。
被災地で苦しむ人に届けと願うのと同じように、
私は私の歌が、
東電の人にも、政府の人にも、
被災地や原発の現場で働く人にも届けと願う。
私の歌でなくてもいい。
あらゆる場所の、絶望に疲れ切った心に、
音楽よ届け、そしてもし出来るなら、
たとえ一瞬でも救えと、願う。
絶望に狂ったリア王に、
最後まで道化が付き従ったように。
私にとって音楽って、そういうもんだと、わかった。
信じていたものがある日倒れ、
そのあまりのはかなさに立ち尽くした春がある。
でも、騙されてたなんて思わなかった。
みんな、信じて、生きて、敗れただけだ。
そんなことを思いながら、
明日、札幌で歌います。